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2009年 08月 07日
本来、8月6日〜9日なので「ヒロシマ/ナガサキ」とか『原爆』『平和』をテーマにしたほうが良いのでしょうが、今回はむしろ「8月15日の終戦記念日」のほうにふさわしい話題なのかもしれません。
『日本国憲法』を守ってきたのは、 『日本国憲法』自身・・・ 実際、この憲法は、改正へのハードルが高い『硬性憲法』なのは確かです。ウィキでは以下のような記述があります。 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/硬性憲法 ーーーーー 民主主義のもとにある国家においては、いわゆる時の権力者である政党等は、例えば立法を担う議会の決議要件を充足する勢力を有するなど法律を自らの意向に従って制定する権限を持つのが通常であり、一面では民主主義はそれを正当に要求するものである。ところが、法律によって規律されるレベルを超えた普遍的な価値、根元的な価値に関しては、法律に関する授権を超えた特別な決議要件を必要とするという考え方が硬性憲法という発想に繋がる。硬性憲法の長所は、時の権力者が(一般の法律はともかく)憲法をも自分に都合のいいように書換えることにより権力を恣意的に行使し、国民の人権を侵害する危険性を低減できる点にある。しかし、改正し難い結果、時代の変遷に迅速に対応できなくなってしまうという短所も存在する。 ーーーーー メリット・デメリットの両面があるのは確かですが、小泉・安倍政権では、郵政民営化の是非のみを争点だと言って獲得した議席によって、やりたい放題というか「防衛省への格上げ」から「国民投票法」まで、国民との約束そのものが無いことを、どんどん推し進められてしまい、そういう意味では『改正しづらい』ことによって「民主主義の危機」を回避することができました。・・・もう少し現実的に言うと、むしろ3分の2議席による強行採決の乱用などによって、むしろ国民が『危機感』を感じて慎重になった側面もあるし、その揺れ戻しによって、むしろ「憲法改正に慎重な意見」が目立つようになった。 私は、現在の憲法が「押し付けられたもの」というのはウソで、『流されやすい国民性』が、時には(悪質な指導者が登場すれば)簡単に「戦争に向かってしまう」という反省をもとに、『先人の叡智』によって『日本国民自身の手』で考えられたものだと思っています。・・・むしろ、どうして長年政権を担ってきた自民党が「押しつけられた」というような『卑屈』な考えで、現在の憲法を変えようとするのか。また、「現在の憲法」に誇りを持てないのかのほうに、同じ国民として非常に恥ずかしい思いがしてなりません。 先日、NHKのドキュメントで、高校生が実際に戦争を体験された人たちに『実体験』を聞くというような番組をやっていました。 その中で、英会話講師として来日しているオーストラリアかカナダ人の女性との会話には、非常に考えさせられるものがありました。 高校生は「国際貢献のために、憲法9条を見直す必要があるのかなぁ?」と、それこそ我が国で生活している人間なら『マスコミの論調』に影響された形で、そう思っても仕方ないような発言をしていました。 それに対する、外国人講師の意見は・・・ ・「平和憲法(戦争放棄)」のことは、当然知っている ・私たちは(九条を持つ)あなたたちの国をうらやましく思う。 ・紛争に対して、戦争以外の全く別の「解決方法」を、九条は提示している。 ・そのような素晴らしい憲法9条を、日本国民は大事にしてほしい。 (メモしていた訳ではありませんが、その外国人講師は、このような趣旨の発言をしていました。) よく「(汗を流さなければ)外国から笑われる」などと、我が国の国内では『9条見直しの前提』として、マスコミを中心に伝えられるのですが、この白人女性に限らず、 「白人文化圏:欧米」 「アジア圏」 「イスラム圏」 国境や宗教に関係なく、どの国の人たちも、太平洋戦争に負けた日本が『平和憲法』によって、戦争を放棄するということを明確に意思表示したことには『評価』することはあっても、決して「だから、日本はダメだ」なんて言う人はいません。 むしろ、戦後一貫して「憲法改正」を志向する『自民党』によって、少しずつ『変質』されてしまっていることのほうが、非常に周辺国の『疑念』とか『危惧』を抱かせているというのが実情であり、それは国益を損なってしまった場合さえあるくらいです。 戦争によって、直接日本軍から占領されたアジアの国々では「70年前の悪夢」に、再び日本が舵を切ろうとしているのではないかという事を用心するのは当然です。多くの人の命が、失われてしまったのも事実なのですから。・・・韓国の人は「秀吉の朝鮮出兵」まで持ち出すなんて言われるくらいです。100年も経たずに「戦争放棄宣言」を撤回しようとしている我が国が、再び軍事大国化するのではと疑念を持たれてしまうのは当然です。 『自衛隊が合憲・違憲』という問題は、『とりあえず作っちゃえ』という、多くの『行政とのトラブル』の原因と全く同じで、きちんと議論しなかったことが、逆に国民の「改憲アレルギー」のようになってしまったのです。 例えば 「全く武力(防衛措置)を持たないのは、さすがに国としては無防備すぎるので「これこれの条件で」最低限の軍事力は必要ではないか? こんな感じで、早い段階で国民の合意を得て「条件の範囲内」を守っていることが納得できていれば、決してここまでこじれなかったのではないかと思います。 ところで、小泉政権を賛美した人たちは、本当に『国際関係』を理解しているのでしょうか? 某国との首脳会談の際、相手を前にした時には「靖国には、もう行かない」という『思わせぶりな発言』をしていながら、結局「それに反すること」を何度もやって、一部の極端なナショナリズムに凝り固まった人間だけしか喜ばないような軽卒な行動を繰り返し、結果的に重要な貿易相手国と『3年以上、首脳会談がナシ』という状況を作ってしまったのも、小泉政権の『外交』の重大な失敗だと思います。 「最後のチャンス」逃した小泉首相~日中首脳会談 【PUBLICITY】 ttp://www.asyura2.com/0411/senkyo6/msg/858.html ーーーーーー ▼21日夜(日本時間22日午前)の日中首脳会談の意義は、 小泉首相が日中関係改善の「最後のチャンス」(中国筋。共同 記事)を、ほぼ逃した、という一事に尽きよう。 政治的不感症の人間が政治的指導者として居座れば、百害あっ て一利なし。そのお手本を小泉首相は示し続けている。 しかし、3年間も首脳の相互訪問が途絶えている異常さには触 れられることもなかった。もしも小泉首相が5度目の靖国参拝 を強行した場合、「政冷経熱」と言われている経済熱も一気に 冷めるのではないか。 ▼「首相の信条とは別にA級戦犯が合祀されている靖国神社参 拝は東京裁判そのものを否定することだ」(自民党元三役。共 同記事)という指摘は正しい。【靖国神社にA級戦犯が合祀さ れた瞬間から、日本の国家元首は靖国神社を参拝してはいけな い】のだ。 そもそも戦争になれば、「戦犯」なんて無数に生まれる。軍需 産業も翼賛メディアも、名前も変えずに21世紀まで存続して いる。あえてA級戦犯を定めたがゆえに、いまのニッポンの繁 栄がある。それがニッポンの選択だった。 ゆえに、敗戦国日本が戦後世界へ参画する/させるために定め た/定められたA級戦犯が祀られている神社への首相参拝は、 日本の復興に協力した戦後世界の体制そのもの・その参加国す べてに牙を剥く蛮行に他ならない。 1度でもやっちまったら、その公人は、国を背負う責任感覚も 国際感覚もゼロであることを表明したに等しい。ましていわん や、亡国の徒輩の所行を4度も重ね、いま5度目に臨もうとし ている小泉首相をや。まさしく小泉首相の存在そのものが「政 治的障害」なのである。 公人の振る舞いは24時間公的なのであり、いかなる理屈を捏 ねても感情論を荒立てても、この一点でニッポンの国際的信頼 は傷つき、特にアジアにおける信頼は地を這い続ける。 ▼「アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳外交は空振り 続き」「(ブッシュ大統領には「再選祝い」の)ご機嫌伺いを しただけ」「(ロシアの)プーチン大統領と会っても具体的に 領土問題に踏み込まなかった」「中国の胡錦濤・国家主席との 会談では、領海侵犯への謝罪を引き出せなかったばかりか、逆 に靖国神社参拝の中止を求められて「誠意をもって受けとめる 」といわされる始末」(日刊スポーツ、政界地獄耳) ▼「隣国でありながら、昨年のバンコクと同様、国際会議の開 催地でしか会談できず、しかも日本側の要請に中国がぎりぎり まで渋る、正常とは言い難い両国関係を反映した内容」「会う ことだけでも意味があるとする考え方もあるだろうが、外交的 な対話とはなっていない。日本は何のために首脳会談を望んだ のか」「日米同盟さえ大事にすれば日本は困らない、日中は二 の次でいいという小泉流の割り切りなのだろうか」(北海道新 聞) ▼「小泉首相が言う平和を願っての参拝であったにせよ、靖国 神社は明治時代に東京招魂社として設立され、戦争の歴史をひ きずってきた。そうした施設に参拝を繰り返すことが、平和を 希求する日本の指導者として妥当な選択なのか」「侵略戦争や 植民地支配によって深刻な犠牲を強いられた近隣諸国の政府や 国民に首相の靖国参拝がどう映るのかも考えなければならない 」(南日本新聞) (読売や産経の社説も紹介されていますが、省略。) ーーーーーー まぁ、小泉氏が政権を担当している間じゅう「大手マスコミ」によって、私たち国民を『騙しつづけた』ということは、上記の「地方紙の評価」と「読売・産経のピント外れな解説」の違いによっても明らかでしょう。 一旦『戦争』という武力を使った争いになれば、当然双方ともに『死力を尽くす』ことになり、負けた側は『敗戦国』として戦勝国側の言う条件を(屈辱的であっても)飲まされることになります。だからこそ一旦武力による衝突が起きれば、勝つ事が最優先とされてしまい、人道的考え方などは押し殺されて『ルール無視』な状態になる。 とくに、我が国は『無条件降伏』のハズです。理屈で言えば戦勝国側の「言いなり」でも仕方がないのです。 したがって、戦勝国の突きつけた『条件』や、それで決まったこと(サンフランシスコ条約)は、最低限遵守するという立場は持ちつづけなければならないということです。・・・その上で、「時代に合わなくなった」ことには、その都度解消するために交渉をするなど、適切な対処をするしかない。 でも戦後、我が国が「奇跡的な復興」を遂げられたのは、誰のおかげなのでしょうか? 過去、総理経験者の中で『戦後復興のために、米国には非常に世話になった』と言った方がいらっしゃったようですが、これは誰も否定できないでしょう。 「学校給食の歴史」というので、 ーーーーー 1947年:全国都市の児童約300万人に対し学校給食を開始しました。 アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳で給食が始まりました。 1949年:ユニセフ(国際連合児童基金)からミルクの寄贈を受け、ユニセフ給食が開始されました。 1950年:8大都市の小学生児童に対し、アメリカ寄贈の小麦粉によりはじめて完全給食を開始しました。 1951年:給食物資の財源であったガリオア資金資金(アメリカの占領地域救済資金)が6月末日で打ち切られました。 国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が全国で繰り広げられました。 ーーーーー 「米国産の小麦を売るため」と言う人もいますが、少なくともアメリカの『無償で』とか『寄贈』によって、当時の子どもたちが給食を食べられるようになったのは事実だし「継続を要望する運動が全国で繰り広げられた」ということからも、その『アメリカのやったこと』が敗戦国としての貧しいわが国にとっては、非常に有り難いことだったのは明らかです。 加えて、アジアの国々でも、例えば「日中国交」のエピソードなどを見ると、 ttp://yakuo.cocolog-nifty.com/syouwasi/2008/04/post_d920.html ーーーーーー 前後四度に亘る日中の首脳会議は、まさしく 打々発止の戦いが繰り広げられ 何度も決裂寸前に至った。周恩来が交渉の途次 「北京は戦時賠償請求権を放棄していない」 と 主張したとき、角栄は 「国府政権から共産政権に代わっても 外交継続の原則がある。一つの中国を主張するなら尚更だ。サンフランシスコ条約で 中国は、日本の在外資産と引き換えに 賠償権を放棄した。従って北京に請求権はない」 と 猛然と反論し、周首相を黙らせた。また 晩餐会での日本側通訳の誤訳の折も、狼狽する大平外相に対し 「大学を出たヤツは 修羅場を潜っていないからダメなんだ。明日からどうするかは 大学出が考えろ。責任は俺がとる」 と 叱咤した。この辺り 角栄の面目躍如としている。大平外相は 姫鵬飛外相と協議し、共同声明には 「日本国が戦争を通じて 中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」 という文言を書き入れた。最後に 爾後の日台関係についても合意が成立し、9月29日午前10時 両首脳が 「共同声明」 に調印、かくして 日中の国交が正常化することになったのである。 ーーーーーー 中国人の場合「慇懃無礼」というか、丁寧な対応をしている間は、相手(中国人)から全く信用されてないと思ったほうが良いそうです。 むしろ、上記にあるように「何度も決裂寸前に至った。」というのは、中国流交渉で言えば『相手を見極めるため』であり、この場合、田中角栄首相は中国側に、交渉をするのに適した人物だと評価されつつあったのだと思われます。 アメリカ人とは逆に、中国人は「契約書は交わさないが、一度信じた人は絶対に裏切らない」という文化なので、いずれにしても田中角栄氏以外では、もしかしたら当時の中国首脳から『信頼される』ような人物はいなかったかもしれません。(別の人だと、国交回復そのものが、もっとずっと遅れた) 角栄氏の話は置いておいても、当時の交渉のニュアンスから「日本の在外資産と引き換えに 賠償権を放棄した。従って北京に請求権はない」というのは、北京政府も理解していた上で『相手の出方』を見るためにわざと、そういう言い方をして『反応』を見ようとしたのかもしれません。 このように、結局『敗戦国』の我が国は『戦勝国』から支配されたというよりも、援助や「賠償放棄」によって『戦後復興』を後押ししてもらったという側面があることを忘れてはならないと思います。・・・それが「戦争を『起こした側』の責任」であり「負けた国」の義務だということです。 「過ちは誰でも犯す。ただ、同じ過ちを“繰り返す”ことこそが、愚かな行為」 私は「不幸な過去を忘れない」ことと「愚かな行為を二度と繰り返さない」と国際社会に表明するということは、外国の人から見て『尊敬される行為』だと思います。 それを国そのものの基本である『憲法』に明記してある我が国に対して、外国の人の評価も、冒頭のNHKのドキュメントの『外国人講師』の言葉が裏付けているということです。 つまり、我が国が『不幸な歴史』を乗り越えて、国際社会で『名誉ある立場』を得るための最も良い方法が 『憲法九条を守る』 ということです。 皮肉なことに、もともと私は、憲法改正に絶対反対ではなく、むしろ『柔軟に対応すべき』だという考えなのです。 ただ・・・ 【戦争の放棄】 「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」 こう憲法に書いてあるにも関わらず、(何も文章を変更していないのに)外国からは普通に『軍隊』と見られている自衛隊を持ち、いつの間にか『防衛庁』が『防衛省』に格上げされてしまう。 その自衛隊にかけている“予算”も、他の国の軍隊にひけを取らない。 「改正もせずに」憲法の“解釈”だけで、ここまで『変質』させてしまうような、現在の我が国の『行政』や『政治家』には、今の憲法そのものを『触ってほしくない」だけなのです。 もう少し、国民から信頼される政治家・役人になってからじゃないと、決して今の日本国憲法と同等、またはより良いものが出来ることは無いのは明らかです。 そういう意味で、「愚かな憲法改正」などはして欲しくないということです。 【資料:日本国憲法】 ーーーーーーー 前 文 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 第2章 戦争の放棄 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 ーーーーーーー この日本国憲法では、最初に「第1章 天 皇」が来て、次に「第2章 戦争の放棄」です。 明らかに『戦争の反省』が強く反映されたものなのです。 我が国でも、相手国でも、まだ「実際に体験した人」が生きているくらい『最近』のことなのです。 まだまだ、戦争を「起こした側」が「過去のこと」とするには、あまりに早すぎるのではないでしょうか?
by mojo_on
| 2009-08-07 13:04
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